2009年06月16日

缶詰(かんづめ)は、缶と呼ばれる金属製の容器を

缶詰(かんづめ)は、缶と呼ばれる金属製の容器を使用し、食品や酸化を嫌う物質、工業製品などを納めた物である。主に食料品の長期保存に適し、加熱処理をした食品を金属製容器に入れて封をしたもの。保存食の一種である。食料品の場合、広義にはレトルト食品も含まれ、さらに、加熱して密封したガラス瓶詰めのものも同一範疇に入れる国もある。[要出典]

ここでは食料品の缶詰について記す。

飲料の缶詰は、例えば「缶コーヒー」「缶ジュース」「缶ビール」などと言い、「缶詰」という語句は用いない。

長期間保存ができ、基本的に調理済みなので、あけてすぐ(または湯煎等による簡易な加熱などのみで)、そのまま食べることができる。 また、あけてすぐに食べれば食中毒を引き起こす可能性も極めて低いなど、多くの利点がある。ただし、必ず加熱殺菌される、固形物は調味液とともに封入する必要があるなど、製造工程に由来する弱点もあり、どんな食品でも保存できるわけではない。例外として、あえて殺菌をせずに缶の中で発酵させるシュールストレミングという缶詰も存在する。また、ドライパック缶といって、水戻しした大豆やひじきなどを、液体を加えず高真空状態で缶に詰め、加熱殺菌時に缶内の蒸気の対流によりほどよく蒸しあがるようにした製品も作られている。

内容物によっては、缶に錫の合金を使い、内容物の腐敗や変色を防ぐ工夫がされている。エポキシ樹脂やフェノール系樹脂塗料が使われることもある。

缶への直接印刷は、日本では戦前は行われなかった。缶の外側に印刷した紙を巻きつけるように張り、これで内容物を示した。この方法は、簡便であるため、21世紀初頭の現在も一部の缶詰で行われている。しかしこの紙を巻くタイプの表示は劣化しやすく、破れたり風化してしまう可能性も否めないため、極めて長期間の保存を意図した製品への使用には向かない。また、缶への印刷に使うインキは金属インキと呼ばれ、金属光沢を生かせる透明性のものが多い。
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カニやホタテの缶詰には酸性パーチ(硫酸紙)と呼ばれる紙が敷かれているが、貝類や甲殻類に含まれる硫黄分がブリキの錫や鉄分と化合して硫化錫や硫化鉄となり、肉に黒い色をつけてしまうのを防止するためだったという。現在では缶の内側に塗料が塗られているので黒変の心配は減っている。むしろ高級感を出す目的や、カニや貝柱の身くずれ防止の意味合いが強い。[要出典]なお、カニやサケの缶詰にガラス様の結晶が発生するストラバイト現象は、カニ・サケ肉の成分であるマグネシウム・アンモニウム・リン酸が結合して、マグネシウム・アンモニウムリン酸塩の結晶(ストラバイト:胃酸で溶けるため無害)が発生する現象であり、これは酸性パーチをもってしても防ぐことはできない。

缶の素材は、日本では主にアルミニウムまたは鉄で、アルミニウム製のものはアルミ缶、鉄製のものはブリキ缶またはスチール缶と呼ばれる。ただし、ブリキ缶という呼称は現在はほとんど使われない。スチール缶は磁石につく。空き缶は回収することにより再資源化することが可能である。

現在は、容器そのものに開封用のプルトップなどがついており、缶切りがなくてもあけられるものが増えている。日本では、缶飲料はほとんどがこの種のものになっている。また、肉や魚などの食品缶詰でもスコアと呼ばれる深い傷のような線を表面につけて、大きく開くようにしたものも多い。このように、缶そのものに開封のためのしくみを付加した缶詰を、イージーオープン缶と呼ぶ。このイージーオープン缶は通常の缶に比べて強度が低いため、高所から落下させた場合に開缶してしまう可能性がある。このため自衛隊などではイージーオープン缶は採用されていない。

また、業務用の大型の缶詰では一斗缶と呼ばれる、18リットル程度の大きさの缶詰がある。主に食用油や液状の調味料、タケノコなどの水煮製品など大型の食材を封入している。

2009年05月30日

香琳院

香琳院(こうりんいん、生年不詳 - 文化7年5月20日(1810年6月21日))は、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の側室で、第12代将軍・徳川家慶の生母。小姓・押田敏勝の娘とされる。名は照、楽、里衛。尚、名のひとつである楽という名は、第3代将軍・徳川家光の側室で第4代将軍・徳川家綱の生母・宝樹院にあやかったとされる。

天明7年(1787年)に大奥に入り、最初は家斉の義妹・種姫の婚儀に従って紀伊藩の奥向きに仕えた。
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大奥に復帰後に家斉の側室となり、寛政5年(1793年)に家斉の次男・家慶を生んだ。次いで御年寄上座に昇進し、また将軍の生母として大奥の女中たちから畏敬されるに至る。

文化7年(1810年)5月20日に病没。墓碑は谷中(東京都台東区)の徳川家墓地に現存する。

2009年04月27日

漁網

漁網(ぎょもう)とは、人間が魚類・貝類などを捕獲するために用いる網の総称である。漁業で用いられる漁具の一種である。また、漁網を用いておこなう漁撈活動のことを網漁と総称する。

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さまざまな漁具のなかでも漁網は「一網打尽」の語のごとく、大量の水生生物を採捕できることから、高い漁獲収益を期待できる漁具である。漁網を用いる漁法は、捕獲対象となる水生生物の種類、操業環境、操業規模などによってさまざまな種類がみられ、また、漁獲量を高めるための技術的努力、研究もさかんである。

その一方で漁業資源の維持という点では、漁網の使用は乱獲・混穫といった問題を招きやすく、ほとんどの網漁は各種の法的規制の対象となっている。

漁網の主要部位
漁網は、網地、綱、浮子、沈子、錨、目印となる浮き樽などで構成されている。

網地の種類
漁網は、糸の結び目(結節)の有無により、大きく2つに分けられる[1]。

有結節網
糸(索)を結んで(結節して)編み目を作る。

無結節網
糸を結ばず、よりあわせることによって網の形にする。

材質
網の材料繊維には、天然繊維(植物繊維、動物繊維)と合成繊維があるが、今日ではほとんどの網糸に合成繊維が用いられている。

合成繊維網が登場する以前は、麻糸、木綿(綿糸)、絹糸、苧糸(おいと)、藁、葛糸、蚕糸などの天然繊維が伝統的に用いられてきた。しかし、天然繊維網の場合、網に付着する有機物や温湿度の変化、夏季には付着する腐蝕虫(プランクトンなど)によって、繊維が腐敗する速度が速い。そのため、これらの天然繊維網の場合、その使用や保存にあたっては細心の注意を払う必要があった。

合成繊維網の最大の利点は、水中で腐敗しないことである。その他にも利点として、過酷な操業環境に耐えうる網の強度や、人為的な操作を潤滑にするためのさまざまな網の表面加工などがあげられる。

この合成繊維網にもいろいろな種類があり、さまざまな網漁法の要請にしたがって、それに最適な繊維素材を選択する必要がある。たとえば、底曳き網などにはハイゼックスなどのポリエチレン系、刺網や定置網にはナイロンなどのポリアミド系、巾着網などにはテトロンなどのポリエステル系が使用される[2]。

漁網の種類
漁網は、田辺悟の分類にしたがうと、以下のように類別される[3]。

抄網類・掬網類
かぶせ網類 -- 投網
刺網類
敷網類
曳網類 -- トロール網(引き網)
繰網類
旋網類・まわし網類
建網類

2009年04月10日

古典派音楽

古典派音楽(こてんはおんがく)は、クラシック音楽の歴史において、1730年代から1810年代まで続いた時期の芸術音楽の総称である。

どの時代区分にも当てはまることだが、始まりと終わりの時期は、前後する区分と重なり合っており、すなわち古典派音楽の始まりはバロック音楽の終焉と、古典派音楽の終わりはロマン派音楽の勃興と並行している。したがって古典派音楽の盛期は、バロック音楽とロマン派音楽の間に位置している。

一般的に古典派音楽として連想されやすいのが、この盛期古典派音楽で、そのうちウィーンを中心に活動した作曲家は「ウィーン古典派」の俗称で知られている。ヨーゼフ・ハイドン、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン等が有名である。ハイドンとモーツァルトは、前古典派や古典派初期における音楽様式の発展の中心であったイタリアや、マンハイム楽派、ベルリン楽派などの各地の様式の影響を吸収しつつ、それらを集大成して比類のない完成度まで高め、それを土台にベートーヴェンがさらに豊かにその様式を発展させた。そして、彼ら自身や人脈の活躍、作品の流通を通じて、その様式は欧州各地に影響を与えた。ムツィオ・クレメンティやヤン・ドゥシーク、ルイジ・ケルビーニ、フリードリヒ・クーラウ、イグナツ・プレイエル、アントニーン・レイハらの国際的な活動のもとで、ヨーロッパのほぼ全土において、ウィーン古典派からの影響が見られる。この意味で古典派の音楽様式は普遍主義的・国際主義的であり、民族主義に影響されたロマン派音楽との違いはおのずと明らかである。また、ウィーンを中心に国際的な活躍をした作曲家に、少なからずボヘミア出身者がまじっていることも注目すべきであろう。

前後する時代との比較から浮かび上がる特徴として、楽曲の均斉感と合理的な展開が重視され、ソナタ形式が発展したことである。また機能和声法が確立され、調性が教会旋法から独立した。この時代の代表的な楽種として、交響曲や協奏曲、ピアノソナタや弦楽四重奏曲、などが盛んに作られた。

粉雪 きくらげ せつごう ラックタイ ドンパ クーラント リコピ サイクル チャドル ドライブス ダウWEB ブイゾーン プレ ドライ ネック ヒーリング ビーチ プードル ルレット スクレ ジーディ ペチュニア イーゼル アブラカ センター ゆり根 アカシジミ クール プロシー キッコ スリー ラケナリ さびいろ しのだけ ハイ ブレー セリーグ タブロー オクラ ナビスト てくぼ ファンネル バイド 光の街 ジャロ ユーロ イギリス ストーリ 気合だ メンズリブ


2009年03月26日

拘束衣(こうそくい 英:Strait Jacket)

拘束衣(こうそくい 英:Strait Jacket)は何らかの理由で他人あるいは自分自身に危害を加える恐れのある者に着用させるための衣服。


解説 [編集]
一般的には袖が長いジャケット状で、着用者の手を腹側にまわして袖を結び上半身の自由を奪うものが知られている。

病院や刑務所などで自傷行為をおこす入院患者や暴れる受刑者に着せられたりすることが多かったため重症の神経症患者、もしくは非常に重要な犯罪者に用いるイメージが強い(一部の映画でもそのように用いられてきた)。精神科の病院で使用されるものは閉じた袋状の袖の外側に短い革ベルトの先端部分が縫いつけられていて、胴体側に付けられたバックル部分に差し込んで使用する製品が多い。これは自傷行為や脱走を防止するために指先を露出させない一方で患者の苦痛を和らげるために拘束衣の締め付けの強弱を調整するためである。胴部のバックルが複数あり、拘束の角度を変えることができる製品も存在する。ただしこれには人権侵害という批判が強い。そのため近年では拘束衣を用いず包帯など柔らかい布でベッドに拘束したり、ベッドの上に厚手の革ベルトや板などを渡し落下防止と拘束を行なう向きもある。

もともとはひどい皮膚の疾患やアルコール中毒など、自分の意志では止めることができないが治療の妨げになる行動(かきむしりや脱走など)を防ぐ目的で製作・使用されてきた医療用具であるので近年では認知症の老人や子供向けに、一人では脱げない衣服、ファスナーで自傷しない衣服が拘束衣・拘束着として販売されている。

また、拘束衣から抜け出す「脱出術」は、フーディーニ以来奇術の定番となっている。BDSMでも拘束具の一つとして用いられる。また、拘束服、拘束着は拘束衣と同様のものである。ただし、BDSMで用いられるベルトを組み合わせただけの衣服としての機能を持たない拘束具も拘束衣と紹介されることが多いが、拘束衣・拘束着はあくまで自由を拘束することのできる「衣服」であり、着用者の皮膚を保護しないものは拘束衣・拘束着とは呼べない。

2007年8月3日には、大阪府警泉南署の留置場で、道交法違反容疑で逮捕された35歳の男性が、留置場内で拘束衣を着せられて保護室に収容中に心疾患で死亡する事件が起きている

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2009年03月11日

チャコ文化国立歴史公園

チャコ文化国立歴史公園は、合衆国内務省の一部局である国立公園局によって管理されている。1980年代には、遺跡公園内でかなり徹底的な発掘調査が行われた。複合的になっている遺跡の建造物の壁が部分的に撤去されたり、壊されたりして何千個体もの遺物が検出された。1981年には、破壊する行為にも似た発掘調査に変わる新しい研究法が採られるようになった。つまりリモート・センシングや先住民の口承伝承に基づく人類学的な研究や年輪年代学といった相対的ではあるが破壊しないで残すという方向性である。この傾向は、ナバホ、ホピ、プエブロなど先住民の代表者の意見を公園の経営に生かすために1991年にチャコ・アメリカ先住民諮問委員会[8]が設立されたことにも反映されている。

公園の基本方針は遺跡を部分的に発掘調査して復元することであるがその権限をもっている。発掘調査された遺跡はBack fillingといって再び砂をつかって埋め戻される。そのほかには「チャコの夜空を守るプログラム」と呼ばれるもので、公園内の夜の暗闇を明るすぎる照明による「光害」「汚染」をとりのぞいて維持しようとする試みである。このプログラムは、1998年に落成されたチャコ天文台を使った天体観測のプログラムであって14000人がそのためにおとづれた。しかしながら、チャコ・キャニオンの遺跡は、公園外部の開発によっておびやかされている。一例としてサン・ファン盆地の連邦の公有地を石炭の採掘のために貸そうという提案が1983年からなされている。公園のすぐとなりには、豊富な石炭を埋蔵している炭鉱があって古代のチャコ人の道路網をおびやかすように露出している。1年以上にわたるチャコ道路調査プロジェクトでチャコ・キャニオンの人々が用いた道路が明らかになり炭鉱の採掘から保護するための措置が取られた。

遺跡
チャコ・キャニオンには、渓谷の底の部分に沿って14kmにわたり遺跡が分布している。月が昇る場所と月が沈む場所が18.6年の周期で変化する位置にあわせて壁が造られた建物がある。九ヶ所のグレート・ハウスは、チャコ・キャニオンの乾燥した渓谷の北端の巨大な砂岩でできたメサのふもとに位置する。他のグレート・ハウスは、メサの頂点か渓谷の近くないし流域に位置する。14ヶ所のグレート・ハウスが確認されていってチャコ・キャニオンに関しては、後述するように地理的に分類できる。

チャコ・キャニオンの中央部には最大級の構築物がある。最も研究が進んでいる遺跡にプエブロ・ボニート[9]がある。8,000m?にわたる面積を持ち少なくとも650の部屋をもっている。プエブロ・ボニートは、グレート・ハウスのなかで最大のものである。プエブロ・ボニートの一部には4階建てになっている部分があり、 壁の芯の部分と表層部を美しく石積みで仕上げた建物や複数階にわたるような構築物を造るには、厚さ1mに達するような分厚い壁の石積みが必要であった。プエブロ・ボニートは、大小36のキヴァをもち、南北方向に走る壁によって二つに区分される。大キヴァは、チャコ・キャニオンにある多くのグレート・ハウスと呼ばれる遺跡では、そのような壁のどちらか一方の端に設けられている。プエブロ・ボニートは完成した時点で、ローマのコロッセウムと大体同じくらいの大きさであった。

プエブロ・ボニートの近くにあるプエブロ・デル・アロヨ(Pueblo del Arroyo)は、1050年から1075年の間に造られ12世紀初頭に完成した。プエブロ・デル・アロヨは、プエブロ・ボニートのある流域の出口の南渓谷と呼ばれる場所にある。カサ・リンコナーダは、大キヴァを持ち他のチャコ・キャニオンの遺跡からは独立した存在になっている。また立地としては、Chacra Mesaの頂点へ向かう急な階段につながるチャコ文化の道路の近くにあるとともにチャコ・キャニオンの南端部分にも位置している。キヴァは独立していてキヴァを支える人々の住む場所や構築物を伴っているわけではない。キヴァには地下のキヴァから地上より高いところへ行く12mの通路があった。シェトロ・ケートル(Chetro Ketl)は、プエブロ・ボニートの近くに位置し、他の集落遺跡にみられるように典型的なDの字形をしている。しかしおおきさはやや小さい。1020年から1050年の間に建設され一つの大キヴァに対し450から550の部屋で構成されている。研究者たちは、シェトロ・ケートルだけでも1時間あたり29,135人の労力を要したと考えている。Hewettは、5000本の木と50万個の石のブロックを建設に要したと考える。キン・クレッツオ(Kin Klesto)はプエブロ・ボニートから西へ0.8kmの場所に位置する中規模の集落である。キン・クレッツオには、北方のサン・ファン盆地から来た人々が建設して住みついた可能性が強い。キン・クレッツオの長方形の形と集落の規模は、プエブロIII期の様式や変形というよりもプエブロII期の文化の担い手たちとの関係がうかがわれる。キン・クレッツオは、55の部屋と地表面を床面にしているキヴァないし宗教的な中心施設として使われたと思われる二階建ての円柱形の塔がみられる。黒曜石を加工した工房跡がこの集落遺跡の近くから発見されている。キン・クレッツオは、1125年から1130年の間に建設された。プエブロ・アルトはチャコ・キャニオンの中央部に位置し、89の部屋をもつグレート・ハウスのひとつであってプエブロ・ボニートから1kmのメサの頂上に築かれた。ひろびろとした立派な建物をたてる建築ブームがキャコ・キャニオン全体に普及し始めた1020年から1050年の間に建設活動が始まった。プエブロ・アルトの位置は、サン・ファン盆地のどこに住民がすんでいるか大部分見渡せる場所で、渓谷の反対側にあるツィン・クレツィン(Tsin Kletsin)から北方3.7kmの位置である。ツィン・クレツィンは、チャコ・キャニオンのすべての集落の発展に影響を及ぼしたビーズやトルコ石製品をつくる工房がある集落である。チャートを材料とする道具の加工もおこなわれていた。考古学者のトム・ウィンデスが指揮する調査結果からツィン・クレツィンには、わずか5つから20くらいまでの一握りの家族しか住んでいなかったと推察される。このことは、プエブロ・アルトも第一義的に人が住むために建設されたものではないことを示しているのかもしれない。他のグレート・ハウスと呼ばれるものとしてはヌエボ・アルト(Nuevo Alto)が挙げられる。ヌエボ・アルトは、プエブロ・アルトの北方にあるメサの上に建設された。ヌエボ・アルトはチャコ・キャニオンでの人口が減少してきた時期に当たる1100年代の後半に建設された。チャコ・キャニオンの北限に当たる場所には、チャコ・キャニオン中央部とは別のグレート・ハウス群がある。そのうち最大のものは、カサ・チキータ(Casa Chiquita)であって、雨が豊富に降った湿潤期にあたる1080年ごろに建設された集落である。カサ・チキータの構造は小さく正方形の断面である。さらには、中庭部分がなく以前に造られたキヴァを分割している様子がうかがわれる。渓谷の中央部地域のものよりも大きく正方形に近い石塊を用いて石積みがなされている。キヴァは北方のメサ・ヴェルデ伝統に似た形に設計されている。渓谷を3.2km下流へ行くとペニャスコ・ブランコ(Peñasco Blanco)というチャコ・キャニオンの渓谷を見下ろす南岸の先端部分に弧状に築かれた構築物が造られた。時期的には900年から1125年の間であり5期に区分される。ペニャスコ・ブランコは壁画で知られ、1054年7月5日に観測されたかに星雲の超新星爆発の光景を記録したかもしれないと考えられている。
スチック プロパ セッター スロープ サブセ ソンソ キラウエ くるくる デイユース ニクロム ルーガル ドードー トリコロ マリン ハイチ キュー ナビユー ワンダラー カバレ ファイト さやえん カスミソウ グラフ ラードツ リング シンプル パイロー サイン ワーク ワイヤ スペルラ ファイラー スペアイト ナビドウ クトリン スープ ドット スイート 弥生姫 クレド タフネス ダーク フレーバ アッラー フロー リキッド クチュリ フォア ザンス ファイブ

フンゴ・パヴィ(Hungo Pavi)は、ウナ・ヴィーダ(Una Vida)の北方2kmの位置にあり、周囲266mの規模をもつ。最初の調査によってフンゴ・パヴィの建物は4階建てで一ヶ所円形のおおきなキヴァを持ち地表に72ヶ所の部屋が造られたことが分かった。9世紀ないし10世紀ごろ建設されたと思われる。キン・ナハスバス(Kin Nahasbas)は、北のグレート・ハウス群に属する主な遺跡のひとつである。ウナ・ヴィーダのわずか北方にあり、北側にはメサがあってその麓に位置する。部分的に発掘調査がなされた。ツィン・クレツィン(Tsin Kletzin)は、Chacra Mesaの上に築かれ、カサ・リンコナーダの上流、プエブロ・アルトから南方3.7kmに位置する。ツィン・クレツィンは、ツィン・クレツィンの人々が生活するための水を供給してきたと考えられる壮大な土木構築物であるWeritosダムの近くに位置する。Weritosダムは豪雨によってもたらされた伏流水を貯めておく貯水池として用いられた。もし突然の洪水があれば膨大な量の水路が造られていき、ツィン・クレツィンの住民はダムを造り直し、その際に把握しうる範囲をさらってダムにせざるをえなかったであろう。チャコ・キャニオンの奥のほうへ行くとA.D.900年前後から造られ始めた最も古い三つのグレート・ハウス群のうちひとつのウナ・ヴィーダがある。 ウナ・ヴィーダは、同時代に構築された遺跡であるペニャスコ・ブランコやプエブロ・ボニートのように弧状ないしD字状のプランをしているものに分類できる。しかし、ウナ・ヴィーダは、構造的に「犬の足」と呼ばれる独特なものが必要だったことが特筆される。

ウィジジ(Wijiji、アカザ科の低木、グリースウッド(「油脂を持つ木」)にちなんでこう呼ばれる)は、グレート・ハウスの中では最も小さく、100くらいの部屋で構成される。1110年から1115年の間に建設された。ウィジジは、隣にあるグレート・ハウスであるウナ・ヴィーダから2kmの位置にありチャコ・キャニオンでも最も奥まった部分に孤立的に建設された。チャコ・キャニオンから直線的に北上するとサーモン遺跡やアズテック遺跡にみられるような集落がある。そういった集落は、A.D.1100年ごろから始まる湿潤期の30年の間に建てられた。チャコ・キャニオンの100km南方には主要交易路であるグレート・サウス・ロードに沿って別の集落群が位置している。そのうち、もっとも大きなものは、Kin Nizhoniであり、湿地帯のような場所のかなにある標高2,100mのメサの頂上に築かれた。

2009年02月22日

バスク語

バスク語(バスクご、Euskara)は、バスク人固有の言語である。孤立した言語。

言語話者居住地の周りをロマンス語の言語に囲まれているにもかかわらず、バスク語は世界のどの言語とも異なる極めて独特な言語である。
ファナテ ピータ ロール ネット ズック リゾラバ 君の瞳 バラブル ハンズ グラジ カナル ウェア ポテト イオン トッピグ タイペイ ライボー ナビスカ セリング サーマル リシン ぐんじょ かぼちゃ ワラビ ジェトロ 中葉春菊 てつむぎ スケボー ヨセミ カノ最新 カーゴ たかのす クチン マツバ 紅葉坂 リミット セイウチ 曼珠沙華 ブレード ワンマ イエロー スクリ キラー ヒュー フリージ スチナ さいさく パピル ライク キッズ

語源が注目される単語として「ナイフ」「天井」等がある。イベリア半島では正体不明の非印欧語族の痕跡も見つかっている事から、そのため、インド・ヨーロッパ語族言語を話す民族がヨーロッパに入ってくる以前から話されていた、氷河時代の先住民族の言語ではとも考えられている。

日本語との親族関係も指摘された事があるが支持されてはいない。後述の能格の存在から、カルトヴェリ語族に分類されることもあったが、現在は比較言語学上、孤立した言語に分類される。

文法的特徴
文法的特徴として能格の存在があげられる。能格構文を構成し、周りの言語の殆どが主格構文であるのに対応している。能格構文は動詞の種類によって主語が主格ではなく能格の格指標を持つ形をとり、この場合主格構文では通常対格をとる語が絶対格とよばれる格指標を持たない形をとる。バスク語のほかにグルジア語なども能格構文の言語として知られる。なおスペインではフランシスコ・フランコ将軍の時代、使用禁止になっていた。

例文
能格の例:Mendiak mendia behar ez du, baina gizonak gizona bai. 山は山を求めないが、人は人を求める。(ことわざ)

mendiak, gizonakのように-kのついたものが能格であり、つかないものが絶対格である。
バスク語学習の神話
バスク語はその独特さゆえに印欧系言語話者には習得が難しいとされる。司馬遼太郎はその著書『街道をゆく』の中で「ローマの神学生のあいだで創られたバスク語学習にちなむ“神話”」として、神からどんな罰を与えられても全くひるまなかった悪魔でさえ、3年間岩牢にこもってバスク語を勉強する罰を課されると神に許しを乞うた、という話を紹介している[1]。

また、英語のジョークとして「悪魔がバスク人を誘惑するためにバスク語を習ったが、7年かかって覚えたのは『はい』と『いいえ』だけだった。」、この変形として「バスク人は決して悪魔の誘惑を受けて地獄には落ちない。なぜなら、悪魔はバスク語を話せないからだ。」といったものがある。

2009年02月06日

林 董(はやし ただす)

林 董(はやし ただす、1850年4月11日(嘉永3年2月29日) - 1913年(大正2年)7月20日)は幕末の幕臣。明治期の外交官、政治家。伯爵。初代陸軍軍医総監・男爵の松本良順は実兄。
マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

董三郎(とうさぶろう)とも。変名、佐藤 東三郎(さとう とうさぶろう)。

略歴
下総国佐倉藩(現・千葉県佐倉市)の蘭医佐藤泰然の子として生まれ、後に幕府御典医林洞海の養子となる。

ヘボン塾(現:明治学院)で学んだ後、幕府の留学生としてイギリスへ行った後、榎本武揚率いる脱走艦隊に身を投じ、箱館戦争時には佐藤東三郎と名乗った。敗戦後、香川・兵庫の県知事、ロシア・イギリスの駐在公使、外務大臣、逓信大臣などを務めた。

董の孫・忠雄は三菱財閥の4代目総帥・岩崎小弥太の養嗣子となった。忠雄の妻・淑子は旭硝子の創業者・岩崎俊弥の次女として生まれ、伯父・小弥太の養女となった。忠雄が小弥太の婿養子となったことにより、林家は三菱の創業者一族・岩崎家と閨閥でつながることになった。

1902年(明治35年)1月30日に、在英日本公使としてロンドンで日英同盟を調印した。このときの英国代表はランスダウン侯ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリスであった。

官職位階履歴
※日付は明治4年まで旧暦

1850年(嘉永3年)2月29日、誕生。幼名:信五郎。
1862年(文久2年)6月、幕府医家林洞海の養子となり、林董三郎を称す。
1866年(慶応2年)10月26日、幕命により英国留学生となり、横浜より出航。
1868年(慶応4年)6月、横浜に帰航。その後、幕府海軍副総裁榎本武揚に従軍し、開陽丸乗組見習となる。  8月、蝦夷函館に赴く。
1869年(明治2年)5月、蝦夷函館政権降伏し、捕虜となり、弘前藩預けの上、禁錮に処せらる。
1870年(明治3年)4月、禁錮の処分を解かれ、横浜に赴く。
1871年(明治4年)9月、神奈川県奏仕出仕に就き、維新政府の地方官僚となる。(時に、神奈川県知事は陸奥宗光)  10月、岩倉具視遣外使節団随行二等書記官に異動。  11月、外務省七等出仕を兼帯(工部大輔伊藤博文へ依頼による。)  11月12日、横浜より出航。時に、林董三郎を称す。
1873年(明治6年)5月、横浜に帰航。  6月9日、工部省工学寮の工学助を兼帯(外務省二等書記官)し、工学大学校設立に従事。(時に工部大輔は伊藤博文)
年月日不詳、工部寮少丞に異動。
年月日不詳、工部省権大書記官に異動。 さらに工部省大書記官に異動。
1882年(明治15年)4月、宮内省大書記官を兼帯。(有栖川宮熾仁親王、欧州歴訪随行員となったため)   月日不詳、参事院員外議官補を兼帯。
1883年(明治16年)2月、宮内省大書記官の兼帯を解く。
1885年(明治18年)12月22日、工部省廃止に伴い、新設の逓信省大書記官に異動。
1886年(明治19年)3月、逓信省駅逓局長に異動。(時に、第一次伊藤博文内閣。逓信大臣は榎本武揚)
1887年(明治20年)3月、逓信省内信局長に異動。  12月3日、香川県知事に転出。
1890年(明治23年)3月、兵庫県知事に転出。
1891年(明治24年)6月、外務次官に転出(第一次松方正義内閣。外務大臣は榎本武揚)
1895年(明治28年)5月、清国駐剳特命全権公使に異動。(時に、第二次伊藤博文内閣。外務大臣は陸奥宗光)  10月31日、男爵を授爵し、勲一等瑞宝章に叙勲受章。
1897年(明治30年)3月、露国駐剳特命全権公使に異動。(時に第二次松方正義内閣。外務大臣は、大隈重信)  5月、スウェーデン並びにノルウェーの特命全権公使を兼帯。
1899年(明治32年)12月27日、勲一等旭日大綬章に叙勲受章。
1900年(明治33年)2月、英国駐剳特命全権公使に異動。(時に、第二次山県有朋内閣。外務大臣は、青木周蔵)
1901年(明治34年)7月21日段階で従三位。
1902年(明治35年)2月27日、子爵に昇叙。 日英同盟締結に活躍し成功を得る。
1904年(明治37年)、不平等条約の改正外交に現場として活躍。
1905年(明治38年)12月、駐英公使が大使に昇格するに伴い、英国駐剳特命全権大使となる。(時に、第一次桂太郎内閣。外務大臣は、小村寿太郎)  下関条約締結に活躍。
1906年(明治39年)4月1日、勲一等旭日桐花大綬章に叙勲受章。  5月19日、外務大臣に異動(第一次西園寺公望内閣)。以後、日仏協約・日露協約・第三次日韓協約(反故条約)締結に及ぶ。
1907年(明治40年)9月14日、伯爵に昇叙。
1908年(明治41年)7月14日、西園寺内閣総辞職に伴い、外務大臣を辞す。
1910年(明治43年)5月段階で、正三位。
1911年(明治44年)8月30日、逓信大臣(第二次西園寺公望内閣)となり、外務大臣を臨時兼任。  10月16日、外務大臣臨時兼任を解く。
1912年(大正元年)12月5日、西園寺内閣総辞職に伴い、逓信大臣を辞す。

2009年01月22日

南部の治安悪化・再び戦争状態へ

タリバンの激しい抵抗
2005年後半からタリバンを中心とした武装勢力が南部各地で蜂起し、米英軍などと交戦している。首都カブールでの攻撃・テロも頻発しているが、対ソ連戦争や軍閥内戦時代にもなかった自爆攻撃(2005年27件、2006年139件)が行なわれるようになったことから、イラク戦争で伸張し数多くの自爆テロを行なってきたアルカーイダの影響を指摘する声もある。

2006年5月15日からはISAFによる「マウント・スラスト作戦」(Operation Mount Thrust)が実施され、南部地域指令部(Regional Command South)の下で第76連合・統合任務部隊(Combined/Joint Task Force-76, CJTF-76)がアフガニスタン南部で実行した。この作戦は、2001年の本戦争が始まって以来、最大の遠距離掃討作戦となった[出典 1]。

2006年6月にはイギリスのシンクタンクが、南部のヘルマンド州ではタリバンが支配力を強め、「再び戦争状態にある」と報告した。

NATO-ISAFの拡大
米軍が独占的に担っていた軍事指揮権は段階的に北大西洋条約機構(NATO)軍に移行され、 2006年7月に全ての権限移管が完了した。これは2003年からのイラク戦争に米軍の軍事力をより配分するために採られたと一般には考えられている。

NATO軍が指揮するのは、37ヶ国より構成される国際治安支援部隊(ISAF)の1万8,500人で、その内訳はイギリス軍約4,000人、カナダ軍約2,300人、オランダ軍約2,000人を主力としており、その内8,000人がアフガニスタン南部でゲリラ化した武装勢力と戦闘を行っている。またNATO以外からの派兵を含めると、2007年初時点での外国軍は約3万2,000人だが、大部分は復興業務に当たっている[要出典]。しかし、2005年後半から武装勢力がアフガニスタン南部で動きを活発化させ、ISAFは予想以上の苦戦を強いられた。

2007年1月に米国は、NATO会議において削減方針を一転して2,500人規模の増派を決定した。

アヘン生産の再拡大
アフガニスタンはアヘン大国であり、世界のアヘン生産の大半はアフガニスタンで行なわれているが、タリバンがケシ栽培を禁止したことによって、開戦直前の2001年の収穫量は前年の3,300トンから185トンへと94%を超える大幅な減少に転じていた[出典 4]。

しかし開戦後、タリバンが勢力を維持している南部を中心に再びケシ栽培が増加し、国際連合薬物犯罪事務所 (UNODC) は2006年のアフガニスタンにおけるアヘンの収穫量が前年より49%増の6,100トンになるとして、この状態に警告を発した[出典 5]。これは、空爆により農地が破壊されたり不発弾等が散乱していたりしていることで、使用可能な農地面積が減少し、農民は対価の高いアヘン等を生産しなければ生活できないためである。また、同じUNODCの2007年のレポートによると、アフガニスタンにおけるアヘンを含む薬物の流通にタリバンが関わっている証拠が存在する[出典 6]。いずれにせよ、結果として、この進攻は、麻薬取引にかかわる勢力に大きな利益を与えたことになった。

国連による謝意決議
国際治安支援部隊(ISAF)の活動期限延長が目的の決議に、不朽の自由作戦(OEF)に対する謝意を前文に加えた決議(→国際連合安全保障理事会決議1776を参照)が国連の安保理で行われた。賛成14、反対0、棄権1。棄権票を投じた常任理事国のロシアについては、OEFが国連の枠外活動であることを主な理由として棄権したと国内では報道されている。だが、国連本部広報センター(UN News Center)の記事によれば、ロシアのチュルキン大使は、決議不支持の理由として、決議の採択前に、問題の海上阻止部門に言及する文言について以下の3点を挙げていたことが明らかにされている。

新たな文言について明確な結論は出されていない。
これまでのどのアフガン関連決議にも登場していない。
テロとの戦いにのみ必要なものでありそれ以外の目的に利用されるべきではない。

戦争の名称
本項目で扱っている2001年からの戦争は、一般にはアフガニスタン戦争と呼ばれることもあるが、この名称では1838年からイギリスとアフガニスタンが3度に渡って戦ったアフガン戦争と区別できなくなる。また、その後の戦争としてソビエト連邦のアフガニスタン侵攻や、ソ連撤退後の内戦というものも存在するなど、アフガニスタンに関する戦争・紛争の名称が混乱しやすいために、2001年からの戦争に対して明確な名称が求められている。その他「アフガンテロ戦争」という呼び方もある[要出典]。

この戦争の捉え方
この戦争についてさまざまな見方や意見がある。形式的には、アフガニスタン内での内戦の北部同盟支援という形をとっているが、アメリカ同時多発テロ事件に対する報復テロであって戦争ではないとする者もいる。それとは逆に、米国側が米国内での同時多発テロ事件を「これは戦争だ」と定義づけ、タリバン側も「まだ戦争は終わっていない」と声明を出したことから、双方で宣戦布告無き戦争という合意がなされているという見方もある。

イスラム原理主義の世界観における位置づけ
イスラム原理主義者にとっては、この事件はダール・アル=イスラムに侵略してきた「十字軍」に対するジハードであるとされている[要出典]。
リーゼント ミニスト 検索うり きえいよこ マンテ コニャック デュレ ピッコロ サイレン ブリストル カレワラ タワー国内 システ はけご フィット 砂時計 ドレート シェフレラ リラキ 純潔 プランナ モダニスト オフサイド サステナ チリソース フクシア ブルー タグボ ゴスペル ラシャ テキント ファロス うばざくら パンドラ エレガ チャネリ オート 紅梅 チキク イオ次 ブラック ドアチェーン パドル ローラシ かいこう 亀王 クロノ タックル マンス インワン

戦争の経過
2001年9月11日 アメリカ同時多発テロ事件で2,973人の死者がでた。米国政府はアルカーイダの犯行と断定し、タリバンへ身柄引渡しを要求するが、拒否された為に武力報復を決定。タジキスタンにCIA要員110名が潜入し、北部同盟と接触して活動を開始した。空母「キティホーク」を日本からインド洋に派遣した。
10月6日 B-2 爆撃機の第一陣が米本土を離陸して、地球半周の飛行を開始した。
10月7日 ブッシュ大統領がテレビ演説でアフガニスタンへの武力行使を発表し、米軍がタリバンの支配地域へ空爆を開始した。B-2・B-52など戦略爆撃機や空母からの攻撃機、艦艇からの巡航ミサイルなど多数の兵器が使用された。
10月19日 米軍特殊部隊が到着した。10月中は北部同盟は動かなかった。
11月 北部同盟軍が攻勢を開始。
11月9日 北部同盟軍が北部のマザーリシャリフを制圧して支配地域を拡大した。日本の海上自衛隊もインド洋に派遣された[1]。
11月12日 北部同盟軍がヘラートを制圧した。
11月13日 北部同盟軍が首都のカブールを制圧した。タリバンは南へ敗走。
11月16日 タリバンの拠点、クンドゥズとカンダハルで大攻防戦が行なわれた。
11月26日 北部同盟軍がクンドゥズを制圧した。タリバンの拠点はカンダハルのみに限定。
12月7日 北部同盟軍がタリバン最後の拠点、カンダハルを制圧した。タリバンは実質的に消滅し、戦争終結と見られた。残党掃討のための空爆や進攻は継続された。
12月22日「アフガニスタン暫定行政機構」が発足した。国王派のハーミド・カルザイが議長に就任。
2002年6月19日「アフガニスタン・イスラム移行政府」が成立した。
2003年3月19日 イラク戦争開戦。アフガニスタン駐留米軍も一部転戦。
2004年1月 新憲法を公布した。
2004年10月 大統領選挙を目前にタリバンが再結成し、駐留軍に対して攻撃を始めた。
2004年10月9日 アフガニスタン初の国民投票による大統領選挙が実施された。投票所の襲撃事件などが発生した。
2004年12月7日 ハーミド・カルザイが初代大統領に就任し、新政府が発足した。
2005年5月 武装勢力の活動が活発になり、駐留軍とアフガニスタン軍が戦後最大規模の空爆を伴う攻撃を行なった。武装勢力と思われる者を40名以上を殺したが、民間人も多数が死亡したと報道された

2009年01月15日

ニコライ・ベルジャーエフ

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ニコライ・ベルジャーエフ(Nikolai Aleksandrovich Berdyaev,1874年3月18日(ユリウス暦3月6日) - 1948年3月23日)はロシアの哲学者。もとはマルキストであったが、ロシア革命を経て転向し、反共産主義者となる。神秘主義に基づき文化や歴史の問題を論じた。十月革命後にパリに亡命。1922年、レーニンの革命政府によって国外追放。

実際に共産党体制を体験したことから、共産主義への深い考察力をもつ。「共産主義はこの世の王国の宗教であり、彼岸世界も、どんな精神世界をも、最終的にかつ決定的に否定する宗教である」として、共産主義思想を宗教として分析、批判している。共産主義はあらゆる宗教的な特徴をもつとしており、例えば、マルクスやレーニンの書物を「聖書」として解釈を許容するが批判は許さないこと、国民を信者と非信者に分別し、信者も正統と異端に峻別すること、異端を破門や極刑に処すること、人間に搾取や階級的不平等などの「原罪」が存在すること、貧困のない「神の国」の到来を予言することなどを挙げている。さらに、共産主義の教義がユダヤ教の至福千年王国説、救世主思想、選民思想にあることを指摘。

歴史哲学
ベルジャーエフは、「人間は<歴史的なものの>中にあると同時に<歴史的なもの>は人間的なものの中にある」とする。各個の人間は、世界全体と過去のすべての偉大な歴史的時代が反映されたミクロコスモスであるというのである。

彼は過去、現在、未来を分割して考えることを批判する。そのような歴史観は刹那の連続に過ぎず、本来実在的な<歴史的なもの>が否定されてしまう。<歴史的なるもの>の体得のためには過去から連なる「伝統」と「記憶」が重視される。民族の記憶と象徴的伝統の中に開示される内的生命が歴史に意味を与えるのである。

進歩主義批判
「進歩の理論は、過去と現在を犠牲にして未来を神化する」、したがって進歩主義は「未来による過去の永遠の破壊、後続の世代による先行の世代の永遠の抹殺である」、そして「進歩の宗教は死の宗教」として批判、「進歩の宗教」に対して次の2つの反駁を行っている。第1に、到来すると信仰する未来の一部の人間のために、それ以前のすべての人間を犠牲にしても正義であるとする思想は、人間の道徳に照らして正当化できるのか。第2に、未来の世が過去の世代より高いところに位置する「完全」への進歩など果たしてありうるのか。

人権、国民主権批判
また、フランス人権宣言が義務というものを忘却していると批判、人権に否定的である。また「国民主権は人間主権である。人間主権はその限度を知らない。そして、人間の自由と権利を侵犯する」として、国民主権も批判している。

邦訳著作

単著
『ドストイェフスキイの世界観』(香島次郎訳,朱雀書林,1941年)
『歴史の意味』(宮崎信彦訳,畝傍書房,1942年)
『近代世界に於ける人間の運命』(菅支那子訳,新教出版社,1946年)
『マルクス主義と宗教』(宮崎信彦訳,慶友社,1951年)
『ドストイェーフスキイの世界観』(三宅賢訳,パンセ書院,1952年)
『マルクス主義と宗教』(宮崎信彦訳,創元文庫,創元社,1953年)
『現代の終末』(荒川竜彦訳,三笠文庫,三笠書房,1953年)
『愛と実存――霊の国 セザルの国』(野口啓祐訳,筑摩書房,1954年)
『孤独と愛と社会』(氷上英広訳,現代教養文庫,社会思想社,1954年)
『現代の終末』(荒川竜彦訳,創元文庫,創元社,1954年)
『キリスト教と階級闘争』(宮崎信彦訳,フォルミカ選書,創文社,1955年)
『ドストイェフスキイの世界観』(宮崎信彦訳,黎明書房,1955年)
『新しい時代の転機に立ちて 現代世界の危機とロシアの使命』(石塚経雄訳,理想社,1957年)
『現代における人間の運命』(野口啓祐訳,現代教養文庫,社会思想社,1957年)
『現代の終末』(荒川竜彦訳,現代教養文庫,社会思想研究会出版部,1958年)
『真理とは何か 真理と啓示』(鈴木康司訳,理想社,1959年)
『ロシヤ思想史』(田口貞夫訳,ぺりかん双書,ぺりかん社,1974年)
『ドストエフスキーの世界観』(斎藤栄治訳,白水社,1978年)
『ロシヤ思想史 新装版』(田口貞夫訳,ぺりかん社,1982年)
『孤独と愛と社会』(氷上英広訳,《哲学思想》名著選,白水社,1982年)
『霊的終末論』(永淵一郎訳、八幡書店、1989年)
『ドストイェフスキイの世界観』(香島次郎訳,ドストエフスキイ文献集成14,大空社,1996年,朱雀書林1941年刊の復刻)
『歴史の意味』(氷上英広訳,イデー選書,白水社,1998年)

共著
『深き淵より――ロシア革命批判論文集2』(長縄光男・御子柴道夫監訳,現代企画室,1992年)
『ベルジャーエフ マルセル』(田口義弘・木村守雄・西谷裕作訳,現代キリスト教思想叢書7,白水社,1974年,『真理と啓示』・『キリスト教と反ユダヤ主義』を収録)

著作集
『ベルジャーエフ著作集』(白水社, 1960年-1961年)
1巻『歴史の意味』(氷上英広訳)単行本復刊
2巻『ドストエフスキーの世界観』(斎藤栄治訳)選書版も出た
3巻『人間の運命』(野口啓祐訳)
4巻『孤独と愛と社会』(氷上英広訳)選書版も出た
5巻『精神と現実』(南原実訳)
6巻『神と人間の実存的弁証法』 (小池辰雄・野口啓祐訳)
7巻『ロシア共産主義の歴史と意味』 (田中西二郎・新谷敬三郎訳)
8巻『わが生涯』 (志波一富・重原淳郎訳)大作自伝
『ベルジャーエフ著作集』(行路社, 1985年-1994年)
2巻『新たな宗教意識と社会性』(青山太郎訳)
4巻『始源と終末 終末論的形而上学の試み』(峠尚武・的場哲朗訳, 1985年)
4巻『創造の意味 弁人論の試み』(青山太郎訳, 1990年)
8巻『共産主義とキリスト教』